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「・・・清太郎さん、起きて。遅刻するわよ」 鼻腔をくすぐるコーヒーの香りと、耳元で囁く妻の甘い声に、私は薄目を開けて微笑んだ。 もちろん、頭はとっくに醒めている。だが寝惚けているフリをして、たまにこうして甘えて見せるくらいいいじゃないか。ただでさえ最近は、可愛い盛りの一人息子に我が妻を奪われがちなのだ。 ・・・いや、もちろん私にとっても息子は可愛いが。なに、男なんてものはいつまで経っても甘ったれで嫉妬深いものなのだ。 妻の髪の甘い香りに心を奪われつつ、私はそんなことを考えた。 「・・・清太郎さん、ねえ・・・」 妻の声に焦りが混じる。これ以上困らせるのは得策ではないだろう。最後に彼女の驚く顔を見て、朝の悪戯をお終いとする事にした。 私は勢いをつけて体を起こすと、妻の華奢な腰を引き寄せた。 一瞬の事に驚いて声も出ない彼女を、優しくベッドに縫いとめる。 「・・・もう、清太郎さんたら・・・」 愛らしく見開かれた目に柔らかな笑みが浮かぶのを見たら、ミッションは8割がた成功だ。 残りの2割は?─聞くのは野暮と云うものだろう。 「・・・おはよう、華・・・」 朝のくちづけを交わし、作戦は成功裏のうちに終りを告げるはずだった。 ・・・・が。 「いつまで寝惚けてやがんだこの変態親父ッッッ!!!」 耳をつんざく怒号とともに、私はベッドから叩き落された。 あたりを見回すと、そこは日本の我が家ではなく、大学の研究室に程近いアパートメントの一室。 そして目の前には、フライパンを片手に、白いエプロンをまとった赤鬼が立っている。 ではなく、頬を真赤に染めた息子の清麿が立っていた。 そうか、と私は前日の出来事を思い出す。魔物に拉致されたこと、古城での再会のこと、成長した息子のこと・・・。そして、久し振りに親子水入らずで過ごしたいからとハウスキーパーを断った事。 私は思わずため息を零した。 「いい夢だったのになぁ・・・・・」 その時、ものすごく近くで何かがブチンと切れた音がした。 「・・・・・・・・・他に云う事はねぇのかこのクソ親父ッッッッ!!!!!」 華、私は常々思っていたことがある。 どうして私達の息子はこんなにも怒りっぽいのだろう? *** 「おはよう、ガッシュ」 「おはようなのだ!」 顔を洗ってダイニングに向かうと、ガッシュが甲斐甲斐しくテーブルセッティングをしていた。キッチンを窺うと、清麿が調理台の前に立っている。驚くと同時に微笑ましさが込み上げて、私は息子の隣に立った。 「おはよう、清麿」 「・・・はよ」 息子は爽やかな朝に似つかわしくない顔で挨拶を返す。まだ怒っているらしい。根に持つ奴だ。 「未遂だったんだから気にするな」 「〜〜〜〜〜〜〜それが親の云い草かッッッ」 ガシャン、と勢いをつけてフライパンを叩きつけるものだから、油がはねたらしく「熱ッ」と指を押さえた。 「何をやってるんだ」 火を消してフライパンをおろさせると、シンクまでその指を持っていった。しばらく流水にさらすと、火傷というほどのものでもなかったらしく、赤味が徐々に引いていく。 清麿はバツの悪い表情でそっぽを向いていた。やれやれ、本当に素直じゃない。 ふと、あの甘い香りが鼻をくすぐり、私はまじまじと息子の首筋を見詰めた。その視線に気付いたらしく、清麿が怪訝な顔で目を向ける。 「・・・なんだよ」 「いや、なんでも」 涼しい顔で空とぼけて見せると、再び清麿は顔を背けた。感じるのはやはりあの甘い香り。 それはちょっとした衝撃だった。あの香りはてっきり華だけのものだと思っていたが、まさか息子の髪から同じ香りがするとは。 そういえば元々母親似だったが、年々それが顕著になっていく気がする。横顔など、出会った頃の彼女に生き写しといっても良いくらいじゃないか。黒目がちな瞳に、細い顎。柔らかな唇・・・ 首の後ろで結ばれた白いエプロンの紐を見ているうちに、私としたことが思い出に浸ってしまっていたらしい。 「もうそろそろいいだろ。感覚なくなっちまった」 そう云われて、私はその腕を掴んだままだった事にようやく気付く。手を離すと、清麿はぶっきら棒に「・・・サンキュ」とだけ云って、再び調理台に向かった。 「ところで父上殿」 ちょいちょい、と下の方からパジャマの裾を引っ張られ、私は屈みこんだ。 「なんだね、ガッシュ?」 「この家に胃薬はあるかの?」 唐突な問いに若干戸惑いつつ、私は戸棚に入った救急箱を指差した。ガッシュは「おお、良かった」と応えると、椅子を踏み台にして、救急箱を取り出した。 救急箱から、過たず胃薬を取り出したガッシュの慣れた手つきに、私は一つの答えを見出す。 そういえば、華の最初の手料理も・・・ 「ガッシュ」 振り向いたガッシュに私は尋ねた。 「ガッシュ・・・酷いのか?その、・・・清麿の料理の腕は」 恐る恐る問うと、ガッシュは簡潔に告げた。 「食べられぬ事はない」 食べてきたんだな・・・・ 愛しき妻の最初の手料理の味を思い出す。それはもう例えるならば・・・いや、よそう。爽やかな朝に口にすべき事ではない。 だが、意外に負けず嫌いでもある華は、その後めきめきと料理の腕を上げていった。元々凝り性であるが故、常人には考えもつかない調理法と調味料を試しては、私を病院送りにする事もままあったが。 「おーい、出来たぞー」 ダイニングから清麿の呼ぶ声が聞こえる。ガッシュは、戦いに赴く歴戦の勇者が如き面持ちでキッと顔を上げた。その姿に私は妙な頼もしさを覚えると同時に、かつての自分の姿を重ねずにはいられなかった。 あの時は、3日ほど口の中に妙な味が残ったものだ。 私は覚悟を決めると、愛する息子の手料理を味わうべく義勇兵となった。 明日はハウスキーパーに来てもらおう、と固く心に誓いながら。 |
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■イヌシバ嬢に愛を込めて(笑) |