ゼロ地点
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その日、昼休みのサッカーで校長室の窓ガラスを割ってしまった俺は、バツとして放課後に学校周りのゴミ拾いをさせられていた。早く部活に出て『燃えて消えるボール』を完成させなければならないのだ、というエースとしての俺の主張は、地域指定の白いゴミ袋でもって一蹴された。
「遠いな・・・チクショー!」
根性でゴミ袋を一杯にし、ようやく開放された俺は、早く野球をしたい一心で部室に走る。
猛暑だ酷暑だと云われた夏が終り、10月ともなれば気温は劇的に下降線を描いてはいたが、それでも午後3時過ぎのグラウンドは結構な暑さで、俺は校舎の裏手にある野球部の部室を目指して汗だくになっていた。

校舎横の水飲み場に差しかかった俺の視界に、アイツの姿が飛び込んできたのはその時だった。


             + + +


(高嶺・・・だよな。何してんだ?)
急には止まれない俺は、足踏みをしながら眼を凝らす。顔はよく見えないが、あれは間違いなく高嶺だ。帰宅部の奴が、あんなトコで何してんだ?
水飲み台に手をついて、けれど水を飲んでいる様子もないその姿に、俺は首を傾げる。
おーい、と声をかけようとしたところで、高嶺の上体がぐらりと不自然に傾いだ。
「!!」
崩れるようなその揺れ方に、ヤバイと思ったときには走り出していた。
貧血にしろ熱射病にしろ、倒れる奴は大体頭から落ちる。この場合問題なのは、その先が柔らかい土でなく、水飲み場のコンクリだって事だ。
スライディングの要領で、奴と地面との間に身体を滑り込ませる。間一髪、支えのなくなった人形みたいな身体を掬い上げる事に成功すると、俺は急き込んで奴に呼び掛けた。
「おい高嶺!大丈夫か!?聞こえてるか!?」
紙みたいに白いその顔を見れば大丈夫でないのは一目瞭然だったが、頬っぺたをペチペチ叩くと微かなうめき声がして、俺はほっと息をついた。
「あ・・・山中・・・?」
「無理に起き上がんなよ。多分貧血だ」
急に頭を起こそうとするのを押しとどめると、高嶺は大人しく身体の力を抜いた。肩に奴の息がかかる。早くて浅い呼吸音。額から頬にかけて流れる汗。
少し落ち着くまで待った方がいいだろう。そう判断して、高嶺を肩に寄りかからせたまま、俺はそろそろと地面に腰をおろした。
水飲み場は、誰かが来る気配も無く静まり返っていた。帰宅部連中の下校時間はとっくに過ぎているし、グラウンドの方からはランニングの掛け声やホイッスルの音が微かに聞こえている。
(部活・・・ま、いいか。どーせ遅刻だ)
そう思ったとき、すぐ傍に立てかけてあった高嶺の鞄に気がついた。帰る途中で気分が悪くなり、ここで一息ついていたという所か。
ちらりと横目で高嶺を伺うと、辛そうに寄せられていた眉間の皺が取れ、いくらか表情が和らいでいた。顔色も、相変わらず良くはなかったがさっきよりはマシだ。
(・・・うわ、まつげ長ーなコイツ・・・)
印象的な、真っ黒で大きな瞳は今は見えないが、頬とか顎とかのラインがゴツゴツしてないので、この角度から見るとあまり男っぽさを感じない。といって女のようだという訳でもなく、見慣れてるはずの奴の顔が、なんだか不思議なもののように思えてくる。
余裕の出てきた俺は、つい観察モードに入ってしまっていた。以前とは比べようもないほど格段に距離が縮んだとは云え、同級生の(しかも野郎の)顔を、至近距離で眺める機会なんざそうそう無い。

「・・・んっ・・・」

肩口で高嶺が身じろぎし、俺は我に返った。そろそろ立ち上がっても大丈夫だろうか。
寄せられた顔の近さに、心臓が跳ねたのを気付かないフリをして、俺は声をかけようと口を開いた。
・・・が。
(寝・・・寝るかテメーはこの状況で・・・ッ)
さっきまで乱れていた呼吸は、いつの間にか規則正しく深くなり、今や奴はどう見ても熟睡していた。
どーしろってんだこの状況で。まさかほっぽって行く訳にもいかないし、ましてやこのまま仲良くへたり込んでる訳にもいかない。
「こら高嶺!起きろ!朝だぞ!遅刻するぞ!」
「・・・あと5分・・・」
駄目だこれは。
諦めた俺は、なるべくゆっくり立ち上がると、荷物と一緒によいしょと高嶺を肩に担ぎ上げた。ガタイのそれほど変わらない相手だからとかなり気合を入れたが、思った以上にあっさり担ぐことができて、俺は肩透かしをくらう。弛緩した身体はそれなりに重いはずなのに、余り手応えを感じない。俺はなんだか不安になった。
この存在感の危うさは一体なんなんだ?
「・・・・・・」
その時、微かに高嶺が呟いたうわ言を、俺の耳は聞き逃さなかった。
その時はなんだか解らなかったが、後から考えれば、それは俺が感じていた疑問に対する答えだったのだ。

肩に高嶺を担いで保健室へと向かいながら、俺はずっとその事ばかりを考えていた。

─一体、高嶺を変えたのはなんだったのか。


             + + +


「寝不足に伴う貧血ね。しばらく寝てれば大丈夫でしょ」
保健室までの道中、とうとう一度も眼を覚まさなかった奴は、ベッドの上ですやすやと眠っていた。俺は高嶺の鞄を保険医に託すと、「じゃ、後よろしく頼んます」と云って踵を返した。
「あ、山中くん部活何時まで?」
ドアノブに手をかけた俺に、後ろから声がかかる。
「6時ですけど」
「そう、悪いんだけど、終わったら一度ここに寄ってくれないかしら?先生6時から会議なんだけど、高嶺くんがまだ寝てたら、一緒に帰ってあげて欲しいの」
それから、帰るときは鍵をかけて職員室に返しておいて欲しい、と云って保険医は鍵の入った引き出しを開けた。
「いいっスよ。元々そのつもりだったし」
俺がそう云うと、保険医は妙に満足げな笑みを浮かべて頷いた。その笑顔に何となくいたたまれなさを感じて、俺は急いで保健室を出た。

結局、遅れて行った練習には全く身が入らなかった。




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