賽は投げられた
(2) その言葉が脳に到達するには、しばらく時間が必要だった。 「聞いてくれ。こんな事を云うのは、お前が初めてなんだ」 (・・・なに、を) 「確かに、私は女の子の姿をしたお前に一目惚れした。けれど、惚れ直したのは」 (なにをいってるんだろう) 「お前が、お前だからだ」 (このひとは、なにを) 耳元で囁かれる言葉と、熱い吐息。けれど、言葉が心にたどり着く頃には、その温度はすっかり冷え切っていて。 「・・・綾崎?」 いつもなら、この辺りで拳か肘か踵が飛んでくるはずなのに。 「じゃあ・・・5万円でどうですか?」 虎鉄は、目を見開いて眼前の少年を凝視する。 「僕はね、物心もつかない頃からお金のためなら何だってやってきたんです。それこそ、犯罪のたぐいの事だって」 まるで睦言を交わすような、普段ならありえない近い距離に、けれど喜びより戸惑いが勝つ現実。虎鉄は自分からハヤテに距離を置くと、やりきれない表情で唇を噛み締めた。 「そんな僕が、どうして自分を売ってないって思えるんです?」 少年は歩き出す。
「・・・何のことですか瀬川さん」 「昨日のこと。虎鉄君が、のび太くんみたいに『ワーン!綾崎にいじめられちゃったよー!』って」 「信じませんよ」 この少年にしては珍しく、むすりとやや不機嫌な口調で返すと、泉は悪戯っぽくぺろりと舌を出した。 「えへへへ〜、やっぱり?でもねー、泣きそうな顔してたのはホント」 「・・・何でそれが僕のせいなんですか」 心外だ、という感情を言外に匂わせて問うと、 「だって、虎鉄君泣かせられるなんてハヤ太くんしかいないもん」 きゃらきゃらと可愛らしい声音で核心を突く泉に、ハヤテはぐっと詰まって少女を見据えた。しばらくそのまま続いた温度差の激しいにらみ合いは、けれどハヤテが視線を逸らした事であっさりと決着がつく。 「いじめた・・・んでしょうか、僕は」 「うーん、自分より弱いコをやっつけちゃったら、いじめた事になるんじゃないかなぁ?」 「弱いって、どこが!」 思わず声を張り上げると、泉はあっさりと云った。 「ぜーんぶ。虎鉄君は、ハヤ太くんの何もかもに弱いの」 絶句するハヤテに対し、畳み掛けるようにトドメを刺す。 「だって、それが恋だもん?」 自明の理とばかりに云い切った泉に、思わず脱力して椅子に沈んでしまうハヤテ。 「あれれ?ハヤ太くん?おーい」 (・・・今日ばかりはお嬢さまがいなくて良かった・・・) ハヤテのこんな姿を見たら、何を措いても飛んでくるであろう彼の主人であり同級生でもある少女は、本日ただ今『雨だから』という理由で絶賛引きこもり中だった。 「まー、恋かどうかはおいといてぇ。ハヤ太くん、そんな無理しなくていいんじゃない?」 ハヤテは、まだダメージの残る顔から視線だけをのろのろと上げる。 「・・・無理って、何のことですか」 「虎鉄君のこと」 泉は、愛らしく小首を傾げて云った。 「そんなに無理して嫌いにならなくてもいいんだよ?」 「!」 弾かれたように顔を上げ、二重の衝撃に言葉を失くす。 その言葉の意味。そして、こんなにも衝撃を受けているという事実に。 「ハヤ太くんって、やーっぱ似てるねぇ」 「・・・誰に」 「うーんと、とっても強くて優しくて〜、すっごい寂しがりやのクセに『すきすきー』ってされるとするっと逃げちゃう、どっかの生徒かいちょーさん、かなぁ?」 その言葉に、いつか聞いた彼女の声が耳に蘇る。 ─ 私・・・バカだな。この景色と同じ。すぐ傍にあったのに、怖くて見られなかったなんて・・・ ─ あの時、彼女は云ったのではなかったか。自分も同じ痛みを知っている、と。 「人に好かれるのって、思ってるほどこわいことなんかじゃないのにね」 「そーそ、ハヤ太くんは笑ったほうが可愛いよ?」 |