賽は投げられた 

(2)


その言葉が脳に到達するには、しばらく時間が必要だった。

「聞いてくれ。こんな事を云うのは、お前が初めてなんだ」

(・・・なに、を)

「確かに、私は女の子の姿をしたお前に一目惚れした。けれど、惚れ直したのは」

(なにをいってるんだろう)

「お前が、お前だからだ」

(このひとは、なにを)

耳元で囁かれる言葉と、熱い吐息。けれど、言葉が心にたどり着く頃には、その温度はすっかり冷え切っていて。

「・・・綾崎?」

いつもなら、この辺りで拳か肘か踵が飛んでくるはずなのに。
不審に思った虎鉄がその顔を覗き込もうとした瞬間、ハヤテはゆっくりと振り返って、云った。

「じゃあ・・・5万円でどうですか?」

虎鉄は、目を見開いて眼前の少年を凝視する。
「綾崎・・・それは、」
虎鉄は悪い冗談でも聞いたというように笑おうとし、失敗した。少年の瞳が、あまりにも冥く、冷たかったので。
「違うんですか?僕の事が好きって、そういうことでしょう?」
その顔に貼りついた、仮面のような無表情に違和感を覚える間も与えず、ハヤテは淡々と言葉を重ねる。
「ああ、相場がよくわかりませんか。本番は無しですよ?5万ならそうですね・・・」
「綾崎!」
虎鉄の両手が、華奢な肩を掴む。その腕が、食い込むほどに力を込めた所為だけでなく震えていた。
「綾崎・・・お前何を云って・・・」
ハヤテはおよそ温度を感じさせない瞳でそれを一瞥すると、まるで肩に落ちた枯葉でも払うような、何気ない仕草でその手を振り払った。
肩に髪が触れるさらりとした音が聞こえる程に、顔を近づける。いつも潤んだような光を湛える黒目がちの瞳を眇め、上目遣いに見つめる様は蠱惑的ですらあって。

「僕はね、物心もつかない頃からお金のためなら何だってやってきたんです。それこそ、犯罪のたぐいの事だって」

まるで睦言を交わすような、普段ならありえない近い距離に、けれど喜びより戸惑いが勝つ現実。虎鉄は自分からハヤテに距離を置くと、やりきれない表情で唇を噛み締めた。
ハヤテは、立ち尽くす虎鉄に初めて笑いかけると、物分りの悪い生徒に言い聞かせるように優しく、かすかな憐れみをにじませた声で云った。

「そんな僕が、どうして自分を売ってないって思えるんです?」

少年は歩き出す。
たった今、自分が打ちのめした青年を、一度として振り返ることもなく。



***


翌日、放課後。昨日とは打って変わりさらさらと雨粒を零す、灰色の空を眺めてため息ひとつ。

「いじめっこハヤ太くん。あんまりウチの執事君いじめないでほしーんだけどなぁ?」

帰り支度を始めていたハヤテは、同級生の少女、瀬川泉のそんな一言に、背後の席を振り返った。見ると、いつもにこにこと笑みを絶やさない少女が、いつも通りの笑顔でこちらを見ている。
「・・・何のことですか瀬川さん」
「昨日のこと。虎鉄君が、のび太くんみたいに『ワーン!綾崎にいじめられちゃったよー!』って」
「信じませんよ」
この少年にしては珍しく、むすりとやや不機嫌な口調で返すと、泉は悪戯っぽくぺろりと舌を出した。
「えへへへ〜、やっぱり?でもねー、泣きそうな顔してたのはホント」
「・・・何でそれが僕のせいなんですか」
心外だ、という感情を言外に匂わせて問うと、
「だって、虎鉄君泣かせられるなんてハヤ太くんしかいないもん」
きゃらきゃらと可愛らしい声音で核心を突く泉に、ハヤテはぐっと詰まって少女を見据えた。しばらくそのまま続いた温度差の激しいにらみ合いは、けれどハヤテが視線を逸らした事であっさりと決着がつく。
「いじめた・・・んでしょうか、僕は」
「うーん、自分より弱いコをやっつけちゃったら、いじめた事になるんじゃないかなぁ?」
「弱いって、どこが!」
思わず声を張り上げると、泉はあっさりと云った。
「ぜーんぶ。虎鉄君は、ハヤ太くんの何もかもに弱いの」
絶句するハヤテに対し、畳み掛けるようにトドメを刺す。
「だって、それが恋だもん?」
自明の理とばかりに云い切った泉に、思わず脱力して椅子に沈んでしまうハヤテ。
「あれれ?ハヤ太くん?おーい」
(・・・今日ばかりはお嬢さまがいなくて良かった・・・)
ハヤテのこんな姿を見たら、何を措いても飛んでくるであろう彼の主人であり同級生でもある少女は、本日ただ今『雨だから』という理由で絶賛引きこもり中だった。
「まー、恋かどうかはおいといてぇ。ハヤ太くん、そんな無理しなくていいんじゃない?」
ハヤテは、まだダメージの残る顔から視線だけをのろのろと上げる。
「・・・無理って、何のことですか」
「虎鉄君のこと」
泉は、愛らしく小首を傾げて云った。
「そんなに無理して嫌いにならなくてもいいんだよ?」
「!」
弾かれたように顔を上げ、二重の衝撃に言葉を失くす。
その言葉の意味。そして、こんなにも衝撃を受けているという事実に。
「ハヤ太くんって、やーっぱ似てるねぇ」
「・・・誰に」
「うーんと、とっても強くて優しくて〜、すっごい寂しがりやのクセに『すきすきー』ってされるとするっと逃げちゃう、どっかの生徒かいちょーさん、かなぁ?」

その言葉に、いつか聞いた彼女の声が耳に蘇る。

─ 私・・・バカだな。この景色と同じ。すぐ傍にあったのに、怖くて見られなかったなんて・・・ ─

あの時、彼女は云ったのではなかったか。自分も同じ痛みを知っている、と。

「人に好かれるのって、思ってるほどこわいことなんかじゃないのにね」
向かいに座る少女は、自分が少年に与えた衝撃の強さを知ってか知らずか、相変わらずにこにこと笑っている。
それは彼女の事か、それとも自分の事なのか。わざとのようにぼかされた主語が、誰を指しているのかは解らないけれど。
「・・・瀬川さんって、意外に大人なんですね」
「意外には余計だよー」
とは云いつつも、怒っている姿にも迫力を伴わない少女はやはり微笑ましく、ハヤテは釣られて笑ってしまっていた。
改めて思う。 ─ このひとが、彼女の友達でいてくれて良かったと。

「そーそ、ハヤ太くんは笑ったほうが可愛いよ?」
「瀬川さんは丘の上の王子様みたいですねぇ」
「そのネタは平成生まれには通用しないのだよハヤ太くん」
お前らも平成生まれだろう、とツッコめる人間は、とりあえずその場にはいない。
いつの間にか雨は止んでいた。



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