アイズ・ワイド・シャット





(5)


"彼"は上機嫌で森を走っていた。
走る、と云っても全力疾走には程遠い。何しろ、久し振りに出会った活きの良い獲物だ。捕まえるのは簡単だが、彼は出来る限り長く、この遊びを楽しみたくて仕方が無かった。
だから、ジャンプして引きずり落とした黒い布の中身が空っぽだった時も、甲高く響いた音を追った先が切り立った崖だった時も、彼は特に落胆しなかった。むしろ、やはり自分の勘は間違っていなかったのだとワクワクさえした。
彼にとって、自分以外の存在は、たった二つに分けられるものでしかない。つまり、「楽しめる獲物」と「それ以外の獲物」。
今追っている獲物は、間違いなく前者だった。
けれど、それももう終りに近づいている。
そう思うと、残念ですらあった。獲物はもうすぐそこにいる。いっそ、わざと別方向に走って泳がせてやろうかとも思ったが、そろそろ彼の腹具合も、そんな遊びはお終いにしたい頃合になっている。

すまないな、もう少し、遊んでやりたかったんだが。

彼は、後ろ足で地を蹴りつけると、邪魔な藪を一気に飛び越えた。
獲物は、やはりそこにいた。自分の姿を認めた次の瞬間、背を向けて走り出す。楽しかった追いかけっこが再び始まる予感に思わず胸が高鳴ったが、腹はそれ以上に空腹を訴えている。しばしの逡巡ののち、彼は遊びへの未練を断ち切った。今度こそ、全力で走り出す。
すると、獲物が一瞬こちらを振り返った。
そうだ、それでいい。
背後から組み伏せるのも悪くは無いが、苦痛に歪む獲物の顔を見ないままというのは、彼にとっては食事の儀礼に反する事だった。
咆哮を上げ、再び大地を蹴る。次の瞬間、彼の鍵爪のひとつが獲物の身体を捕らえた。
「うあぁぁぁッ」
獲物は悲鳴を上げて、地面に倒れこんだ。そのまま動かなくなるかと思ったのもつかの間、まろびながらも上半身を起こすと、じりじりと後ずさりながら睨み付けてきた。
だがその左半身は、先程引っかけた爪のせいで見る間に真赤に染まり、外傷のショックのためか、不規則な呼吸を繰り返す唇は青くわなないている。
彼は、目の前の獲物を興味深い眼で見下ろした。
ここまで散々楽しませてくれたのだから、どんな手強い生き物かと思えば、これまで見た事も無いような華奢な四肢に、薄っぺらい身体。爪先ひとつで簡単に引き裂ける皮膚には、満足な装甲すら無い。
これは、喰らってもさぞかし食いでが無いだろうと思う反面、こんな風になってまでも気丈に睨み付けてくる闇色の瞳から、なぜか眼を離せない。
彼の知っている限りでは、闇は何物も映さない漆黒のはずだった。こんな風に、色という色を全て溶かしたような、深い色の闇は知らない。
夜露のように濡れ光る瞳を見つめながら、黒い獣は静かに自分を見失っていった。
獲物の身体からぽたぽたと流れ落ちる血の匂いに酷く興奮する。
彼は、今ここにいるのが自分だけという幸運に感謝した。
これは、自分の─自分だけの、獲物だ。
ゆっくりと歩み寄ると、少しでも逃れようとしてか、獲物がわずかに身じろぐ。だが、その行動は結果的に、血に染まった左半身を、彼に向かって差し出していることにしかならなかった。
いとおしいほどに、哀れな獲物。
慈しみすら湛えた淡いオレンジの瞳で獲物を見据えると、その前足で赤く染まった肩を突き倒した。
「うあッ、あ、あァッ」
左肩に軽く乗せたその前足を少しずらしただけで、獲物は音楽のように心地よい叫びを奏でる。とてつもなく甘美な旋律をもっと味わいたくて、彼は飽きもせず獲物の上半身を嬲った。
「ぐ・・・ッは、あ、ああ、・・・ッ」
だがそうしている内に、獲物の声がだんだん力ないものへと変わってきた。これは少し遊びすぎたかも知れない。そろそろ終りにしてやるべきだろう。そう、お互いのためにも。
彼は、鼻先をその柔らかそうな首筋に近づけた。味見をするように舌を這わすと、その身体が微かにビクリと強張る。血に塗れた獲物の匂いは、極上の麻薬のように甘い。
彼は、自分で思っている以上に、目の前のか弱い生き物に溺れていた。
だから、その黒い瞳が、まだ光を失っていない事に気付かなかった。

別れを惜しむように、ゆっくりと口を開いたその瞬間─

「グオオオォォォォォッッッ!!!」

額に、灼熱の塊を焼きいれられ、喉から低く連なった呻きが迸った。
戦いの間は決して閉じる事のない第三眼に、何か尖ったものを突き立てられたという事は、彼にはわからなかった。




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