(6)
清麿は、恐ろしい咆哮を上げながら仰け反った獣の下から何とか逃れると、震える右手を胸の前に構えた。
その手に握られているのは家の鍵。汗で滑らないよう、拳を包むようにハンカチで固定されているそれは、即席で作ったダガー(短刀)だ。決して鋭利ではないが硬く尖ったその先端は、獣の体液に塗れていた。
人間の喉のように、どんな生物にも、鍛えようのない弱点がある。この黒い獣にもそれがあるとすれば、おそらく額の第三眼だろうという見当はついていたが、まさかこれほどダメージを与えるものだとは思わなかった。獣にはもはや清麿の姿は見えず、ただ闇雲に前足を振り上げ、樹皮を削いでいる。その嵐のような攻撃から身を潜めていると、いつしか木々をもなぎ倒し、獣は走り去っていった。
(・・・助かっ・・・た・・・?)
まるで実感が湧かないが、ともかく危機は去ったらしい。清麿は伏せていた身を起こすと、木の根元に背中をもたれかけた。
気がつけば、あたりは少し薄暗くなり始めている。
これからどうしたものか、まるで見当もつかなかった。
確かなのは、もう指一本動かすのも辛いほど、疲労が溜まっているという事実だけ。
無理もない、今が夕方なのだとすれば、朝から数えてもう10時間近く戦い続けていた事になる。
もっと長い戦いは、過去に何度もあった。もっと苦戦した事も。
けれど、たった独りきりで戦ったのは初めてだった。
いや、今の清麿は、ある意味独りよりももっと孤独な存在だった。いつだって彼の傍にいるべきは、魂を分けた半身なのだから。
「ガッシュ・・・」
久し振りに口を開け、その名を呼ぶ。乾ききった喉で絞り出す音は情けないほどに掠れていて、こんな姿はとてもではないが見せられない。
(そうだ・・・元気な姿、見せなきゃな)
帰る手段は一応あった。夏に通った、人間界と魔界をつなぐ洞窟。くぐってから24時間経つと帰れなくなるという条件付だったが、今回はあの洞窟を使ってこちらに来た訳ではない。
(だからきっと大丈夫。帰れるはず)
そのためにも、今必要なのは休息だ。少しでも身体を休ませたら、食べられる物を探して、そして森を出よう・・・
そうして、眼を閉じたその刹那。
(・・・?)
何か、低い振動音のようなものが耳に伝わってきた。不吉な予感に、清麿は重い瞼をこじ開けた。
それは、森の奥から低く間断なく響いている。
清麿は眼を見開いた。
真黒に塗りつぶしたような森の中、淡いオレンジ色の光が灯っている。
三つ、六つ、九つ・・・
正三角形を構成する光の一群が、次々と灯ってゆくのと同時に、低い振動音が近づいてくる。空気を震わせるそれは、限りなく低い音域で紡がれる唸り声だった。
「・・・あ・・・」
思わず後ずさる。だが、背後にそびえる堅い樹に、すぐに背中がぶつかった。
清麿は、無意識の内に赤い本をかき抱いた。
「ガッ・・・シュ・・・」
清麿のいる一点のみを見据える、膨大な数の光。その中心には、三角形の頂点を欠いた一対の光があった。
再会を喜ぶかのように、その光が細められ。
それを合図に、森の中から次々に黒い影が飛び出した。
「ガッシュ――――!!!」
清麿は、間近まで迫った"死"から、赤い本を守るように抱きしめ、眼を閉じる。
(・・・?)
だが、覚悟した衝撃は訪れず、代わりに空気が微かに揺れるのを感じた。
それだけでなく、どこか馴染み深い匂いを嗅いだような気がして、清麿は顔を上げる。
その直後─
「ミベルナ・マ・ミグロン!!」
鋭い声と共に、白銀色に輝く無数の三日月が、清麿の周囲に出現した。
その、抜き身の刀を思わせる煌きを目の当たりにして、黒い獣たちの間に明らかな動揺が走る。
あるものは森の奥深くへと姿を消し、それでも向かってくるものには、容赦なく三日月が襲い掛かる。
その光景を茫然と眺めながら、清麿は詰めていた息を吐き出した。
(やっぱり・・・ここは・・・)
遠く微かに響く子供の数え歌。
舌足らずなその声を思い出しながら、清麿は意識を手放した。
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