<A.M. 9:25> (-8h35m)



「─ひと晩かけて探して、見つけたときにはもうあの姿だった。具体的に何をされたのかは、爺が口を割らないから判らないが、投薬か催眠か・・・そんな所だろう」
政財界の陰の首領とも噂される三千院帝が、何を目的としたものか怪しげなメカや薬品開発に私財を投じていることは、虎鉄も噂としては知っていた。聞き終えた虎鉄は、怒りを通り越し呆れた声で呟く。
「人の執事をよくわからん人体実験に使ったって云うのか?噂以上のイカレ振りだな」
もちろんナギは、帝が誰に何を云われようと庇うつもりも反論するいわれも無い。だが、その言葉には素直に頷くことができず、ごくわずかに目を細めた。
(使用人を使った人体実験・・・確かに、普通ならそう思うんだろうな)
ハヤテが、ナギの母親・紫子に似ているという事実を知らなければ。


ナギ自身は、少し似てるかな?と思う程度だった。
だが、紫子を姉のように慕っていた伊澄の母をして『うりふたつ』と云わしめるのだから、似ているのは単に顔の造りや雰囲気だけでなく、内面的な部分も大きいのではないだろうか。
そして、帝は病弱な一人娘を溺愛していた。
目的は判らない。けれどその要素を合わせて考えるならば、むしろ標的は最初から─

「それで、綾崎は大丈夫なのか?」
問われ、ナギは我に返る。
「あ、ああ。爺の云うことを信じるなら、まだ試験段階だそうだ。だからきっちり20時間後、今日の夕方6時に効果はなくなるらしい。─ サンドリヨンよりは6時間も早いな」
最後はよく解らなかったが、ナギが落ち着いている理由が判って少しだけ安心した。この意地っ張りな少女が、ただの主従以上の想いを少年執事に抱いている事は傍目には明らかだったから、もし本当にヤバい事態なら、これほど落ち着いてはいないだろう。そう思いはしたものの、実際にそれを聞くまで不安が拭えなかったのは確かだ。
だから、改めてハヤテが今置かれている状況を問う。すると、思わぬ答えが返ってきた。
「今のハヤテは、云ってみれば"無垢"だ」
「?・・・なんだって?」
意味が解らず訊き返すと、少女は(勘の悪い奴だな)という表情を隠しもせず、けれど常に無い寛容さで説明を続けた。
「性善説だろうと性悪説だろうと、生まれた時はどんな人間でも無垢なものだ。それが成長するに従って、嘘やごまかし、馴れ合いなんかを覚え、他人の感情と折り合いをつける事で自分の精神を守るようになる」
説明を聞く内に思い当たった。今日見せつけられたハヤテの異常なまでの強さと、相対するような無邪気とも云える挙動の数々。
「今の綾崎は・・・成長前の無垢な状態だと?」
ナギはかすかに頷いて見せると、
「今のハヤテには、他人の感情を受け流す事ができない。だからもし、悪意や強い悲しみといったマイナス感情に晒されれば、それはそのまま傷として残ってしまう恐れがある。・・・ついでに教えておくと、記憶喪失の人間は、記憶はなくしてもスプーンの持ち方や言葉まで忘れている訳じゃない。同じように、今のハヤテは行動や感情こそまるっきり子供以前のそれだが、常識はわきまえているからな。さっき迷わず女子トイレに向かったのも、別に自分の性別を忘れている訳じゃない。あの格好で男子トイレに入る方が非常識だとわかっているからだ」
(そういえば、綾崎はどこだろう?)
はたと思いつき視線を巡らせると、ほどなくぺたんと芝生に座り込んでいるハヤテを見つけた。頑是ない子供のように朝露でスカートを濡らし、小首を傾げて散歩中の犬を眺めるその姿に、先刻の"無垢"という言葉がオーバーラップする。
何も飾らず鎧わない、生まれたままの剥き身の心。
「大体判ったが・・・肝心な所がわからんな。一体何の目的でそんな実験を?」
核心を問う虎鉄に、ナギは苦々しい表情を浮かべた。まさにそれこそが、帝が最後まで頑として口を割らなかった事だ。だが、おそらく想像するに。
「・・・これは私の仮説だが・・・今のハヤテには、多分刷り込みが可能だ」
「刷り込み?」
「刻印、インプリンティング・・・何と呼んでも構わないが、要するに、孵化したばかりの雛が初めて見たものを親と思い込むアレだ」
2人の間を、微妙に生温い風が過ぎて行く。口火を切ったのは、虎鉄の方だった。
「・・・お前の爺さん、何考えてんだ?」
「云うな!私だってあんなのが血縁だと思うと恥ずかしいやら口惜しいやら・・・!」
頬を真赤にして涙目のまま、ギリギリと歯噛みする。虎鉄はそんなナギに初めて同情を覚えると、ハタとその可能性に思い当たった。
「つまり・・・今なら綾崎にあんなことやこんなこ」
思うだけでなくウッカリ口に出してしまった虎鉄に最後までは云わさず、ナギのアッパーが直撃する。
「いいか!たとえハヤテがお前に懐いたとしてもそれはあくまで一時の気の迷いだ!目が醒めたら忘れる夢のようなものだという事を忘れるな!」
「わ、判った判った!」
虎鉄は顎をさすりながら、荒ぶるお嬢さまをなだめにかかる。そうしながらふと、今更な疑問が浮かんだ。そこまで判っているのなら、四の五の云わずにハヤテを屋敷に連れ帰れば良いのではないか。
「・・・どうしてお前、その事を私に?」
訊ねると、初めて少女の表情に自嘲するような色が浮かんだ。
「私では、今のハヤテを守れない」



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